犬猫を飼うときに、何か特別な資格が要るのかと言えば、そうではない。
何かの試験に合格して、初めて犬猫を飼う、というわけではない。つまり、我々は無資格で犬猫を飼えるのだ。
言い換えれば、何の審査もないので、犬猫を飼うに相応しいかどうかは、自己判断だ。
犬猫の殺処分が問題になる背景には、飼い主が犬猫を飼うときの安易な心構えがあるのかもしれない。
「簡単に飼えてしまうだろう」と錯覚しているのである。
だが、現実には、しつけや予防接種や餌やりなど、沢山の課題が飼い主に課せられる。
病気になってしまったり、介護が必要となれば、飼い主がきちんと責任を持って行わなければいけない。
これらは、飼い主が行うべき当然の義務ではあるが、出来ずに犬猫を手放してしまう人も少なくないだろう。
安易な認識が、犬猫を捨てる人を生み、更に捨てられた犬猫は保健所へ行き、引き取り手がいないと殺処分になってしまうという具合だ。
根本的に突き詰めていけば、犬猫を飼う前の安易な認識へと辿り着くだろう。
端からみると、犬猫を飼う人は、とても充実した生活を送っているように見える。
誰か犬猫を飼う人の家に足を運んだり、はたまた、散歩中の犬に出会ったりして、そう思う人は少なくないだろう。
だが、その充実した生活の裏には、犬猫に対して多大な時間を割いているという、端から見ただけでは分からない面が存在するのだ。
安易な認識が生まれる理由は、単に端から見ただけでの判断で、しっかりとした熟考をしていない。
そして、熟考をしなくても、手に入れようと思えば、犬猫を手にすることができる。
誰でも飼うことができるのだ。
無資格でも飼えてしまう問題はそこである。
例えば、車の免許を考えてみよう。
車の免許は、我々にはとても一般的な制度だ。きちんと教習所に通い、試験を受ける。
そうして初めて、車を運転することが認められる。犬猫を飼う時にも、このような資格を国が管理して行うことが大切だろう。
そうすれば、安易な認識で犬猫を飼う人の認識を改めることも可能だ。
犬猫の殺処分ではなくて、犬猫を捨てること事態が問題となる社会に、次の段階としてならなければいけない。
殺処分に安易に走ってしまうことが、犬猫の命に対して、社会が杜撰に考えていることの顕れだと考える。
そして、最終的には、誰でも犬猫を捨てることを考えもしない社会が理想だ。
絶えずこの理想のために、解決策を考えなければならない。
公的な資格制にすることで、権威ある安心したものとして、理解されるであろう。
単に、資格ビジネスに乗ったような資格付与では、殺処分の問題を根本的には解決できないだろう。
公的な資格にすることで、国全体が犬猫のことを考えていることを、強く皆に印象付けられる。
皆を変えるためには、個人の範囲内では限界がある。
なので、国の参加が不可欠だ。
犬猫を飼うことを資格制度化すれば、犬猫と人間がより良く共存する社会を築く第一歩となるだろう。